ドクター苫米地の新・福音書―禁断の自己改造プログラム―/苫米地英人
何を信じれば良いのか先が見えなくなっている昨今。信じられるものは「お金」だけという風潮が漂うこの時代において、本書は文字通り「新・福音書」になり得るのではないかと思っている。
本書では人の生きづらさの克服を目指して、その原因と対処法、トレーニング法まで記載しており、おまけに目指す場所まで提示してくれている。
人の生きづらさの原因とは何なのか。本書では、それを本人の「自我」の問題としている。では「考え方」であったり、物事の「捉え方」などの対処法を教えてくれるのかと言えば、そうではない。そもそもの仕組みに問題があるので、その仕組みを改善しましょうと提案しているのである。
"「自我」は他者との関係性が作り上げる情報状態。いくらでも簡単に書き換えられる" これは本書からの引用だが、これから自分なりの感想、解釈を織り交ぜながら、本書の素晴らしさをお伝えしてみたい。
まず重要なキーワードとなっている「自我」と「自由意志」を再定義すると、「自我」とは過去の経験と現在の自分の信念、価値観に基づき「今を維持するシステム」、「自由意志」とは過去の経験と現在の自分の信念、価値観を完全に無視して「今を変えていくシステム」。
「自我」とは過去の実績、成功体験しか認めない前例主義、「自由意志」とは過去の実績、成功体験には興味も関心も示さない革新主義的システムと言えばイメージが湧きやすいかもしれない。
本書では「自我」が育ち、教育、社会環境などの外部情報と、その外部情報に見合う自分を作ろうとする理想の自分(あるべき自分)の 2つが「自由意志」を抑え込む状態を作り出し、結果、生きづらさを生み出していると言っている。
ポイントは、自我とは「他人の尺度」と「自分の尺度」で作られた人工物に過ぎず、作り直すことができると言っている点だ。では、どうやって作り直すのか。その方法については―抽象度を上げるトマベチ流・7種のトレーニング―の章を参照してほしい。
本書では自我の存在を否定しているわけではなく、むしろその存在と成り立ちに個人差があることを認識し、有効に利用してほしいということも言っている。
著者の言葉にもあるように「自我」とは、自分の身体に置き換えて考えた場合、健康を保つための免疫システムのようなものである。著者が他の著書でも記しているように、健康は目的ではなく手段である。その考えに従えば、健康を手段として目的を実行するように、自我を手段として自由意志を実行することが本来のあるべき姿に思えてくる。
自分の自由意志が働きやすい自我環境の設定を行うことが、生きづらさの克服につながる小さな、しかし大きな一歩になるのだろうと思った。
2021.02 GAJIO