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向こう見ずの代償


住み慣れた家からの引っ越しが決まって、真っ先に脳裏に浮かんだのは壁のクロスのことだった。4年と少し住んだ事務所兼自宅は1LDK。南向きのリビングは日当たりがよく、キッチンはタイル張りで寝室には朝陽が入る。こじんまりして使い勝手のいい家だった。


何度か大きな地震があって、考えた。もしまた大きな揺れが来たら... 備えあれば憂いなし。耐震グッズを買い、大型家具を固定したい。ホームセンターで購入した商品は、特許取得済の、何やら画期的なモノらしかった。


固定したい家具にその商品を取り付け、固定したい場所にもう一方の接着面をつけるタイプ。何が特許かというと震度6でも固定されていることと、専用器具を使えば接着面がすぐに剥がれるということ。これはいい! 売り文句を信じ込んだ私は、迷うことなく、というか、いつものように後先考えず、潔く、壁のクロスにその接着面をつけたのだ。


メーカーの剥離器具は、すでに販売中止となっていた。直接、問い合わせて在庫の有無を確認したところ、丁寧なお詫び文とともに在庫は1つもないという返事が返ってきた。...そもそも、壁のクロスに貼っていいなんて、どこにも書いていない。いくつかの関連画像を見ると、メーカーの想定は、例えばパソコンなどの機械と、床をつなぐイメージだった。


やばい...


賃貸マンションの壁のクロスに、強力接着シールのついたものを貼るバカがどこにいる? ...ここにいる。信じ難いが、鏡に映っている。引っ越しが決まってからの数週間、頭の片隅にずっと壁のクロスのことがあった。不安は募るばかり。とにかく仕事の締切が第1優先、で、2番目が壁のクロスである。


大きな入稿を乗り越え、ついにその時が来た。例によって後先考えず、いろんな場所に手をつけてしまい部屋じゅう物であふれ返っているが、そんなことより壁のクロスだ。


ドライヤーで熱を当て、ゆっくり、ゆっくり剥がしていく。外気温は30℃オーバー。ドライヤー作業なんだから、夜、もう少し涼しくなってからのほうがいいに決まっているが、そんなことより壁のクロスだ。


1か所目が素晴らしくきれいに剥がれた。やった! 100均のシール剥がし液なんて不要、シールにはやっぱりドライヤーなんだ!


2か所目もイメージどおりに剥がれて「完全にマスターした」と思った。3か所目。同じように熱を当て、ゆっくり、ゆっくり、慎重に...


「ビリッ!」


耳を疑う音とともに、壁のすぐ近くにあったはずの左手が宙に浮いていた。


「壁 クロス 修繕」... 血眼でネットを漁る。「同じクロスのサンプルなどがない時には、コンセントに隠れている部分を(こっそり)剥がしましょう」。ドライバーでコンセントを開け、余分なクロスを剥がして動画の手順どおりに補修していく。


どうしてこうも向こう見ずなんだろう。いくら地震が怖いからって、壁のクロスに強力接着シールを貼るバカがどこに... 何かに夢中になると、まったく後先を考えない。「〇〇したい」という気持ちが、不安材料や負の可能性をすべて打ち消してしまうのだ。


「転ぶことを考えないで、どこでも走り回る子どもだったよ」とは、母のつぶやき。三つ子の魂で、人生、無駄に転び続けている。


クロスの破れで無駄に落ち込み、補修用の接着剤で親指と人差し指が接着してしまってさらに落ち込み、情けなさで涙が出そうになる。クロスの破れを見たばかりで、皮膚の破れに恐怖しながら何とか指を離して、安堵する。こんなドラマ、引っ越し準備には不要なはずだ。


無駄に落ち込んだ分、クロスの補修技術は、ほぼ完ぺきに習得。友人が困った時には、この技で、ぜひとも助けたい。暑い、夏日の出来事だった。ひとまず、やっと、メインの荷造り作業に入れそう... MH









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